いよいよ前に進むときがきた。

心の重荷をおろしなさい。
自分が陥っているパターンを愛することを執着と呼ぶ。

執着は、愛ではない。

抜け出せない思考パターン、反応、信念。
それらはあなたに気づいてもらいたいから主張する。

「ああ、またこれか」と思う懐かしいおなじみの自己嫌悪、あきらめを感じたら
それは今こそチャンスにかわる。

あなたが自らを愛すれば愛するだけ、世界はあなたに愛をもたらすだろう。

ここで使った愛とは、尊敬すること。感謝すること。喜び、受け入れ、敬うこと。

まず、自分自身を許すのです。

許すチャンスを見つけたら、それは宝をみつけた瞬間なのですよ。

今年に入って書きためていたものを読み物の形にまとめました。

まだまだ完成ではないのですが、
まずは読み始めていただこうかなと思って
公開することにします。

半自動書記・・インスピレーションライティングで書いています。
読み物としてお楽しみいただければ、嬉しいです。



救いを求める自分に救いを差し伸べることができるのは、本質的には自分しかいない。

命を輝かせて満開の花を開花させることができるのは、
そう、やはりあなただけなのだ。

あなたがやらないで、一体だれが代わりにやってくれるというのだろう?

魔法使いや白馬の王子様がやってきて、
一晩で世界を変えてくれると、本気で信じているのかね?

あなたが、命をもってこの地上に今存在しているということ。
このことを奇跡と呼ぶ。

自分を生の喜びで満たすことに同意するのです。
自分が喜びに満たされて生きているということを許すのです。

そして、それを受け入れたとき、あなたの新しい道が動き始める。

しかしそこまででは創造ではない。

うけいれたなら、今度はそうであるものとして今から瞬間瞬間に存在するのです。
そうであるものとして、生きる。
それを実行することによって、あなたはこの救いの輪を完成させることができます。

救いの輪・・・
あなたが自らの光を分かち合うことの行動を起し、
結果になんらかの期待をしないこと。

他者に見えるもうひとりの自分と愛を分かち合ってみて
その体験を感じてみるとき、
あなたの心はすばらしき宝を手に入れる。

これはやらなければならないことではない。
押し付けているのではない。

いつでもやりたくなった時に、やればいい。

いつやるかはあなたの自由。
しかし、必ず、その時はくる。


いつ書いたものなのかそれすら忘れてしまったが、
今、なんでも書いているノートを開いて、
ちょっと前に自分が書いたものをみた。

ら。。。

なんだろう。
深すぎて、しばらく考えてしまった。

インスピレーションが来たときは一気に急いでメモするんだけれど
後から読み返すと、本当に自分が書いたのかな、
と思うのはいつものことだ。

**********

娘をもう一人の自分として心から感謝をもってみることができたとき、
あなたは娘と、
娘が負っていることを癒すことができる。
それを我が一部とするからだ。

癒しとは、完成される輪である。

癒し手と、何かを引き受けた人

親子など、直接関係のある人は、
特に近しく同化しているがゆえに引き受け、
愛あるがゆえに癒す。

助け合っている。愛し合っている。

どちらの行為も愛の表現なのだ。

それは『大いなる自分』に対する愛、いとおしさ。

このことに気づいて同意するとき、
責任という言葉は愛と同義語となる。

************

日常の中で起こったエピソードで
キーワードは「役割り」だなって思うことが起こった。

「役わりだからやる。役わりじゃなかったら、やらないよ。」

そういうセリフが聞こえてきて、
この言葉が私の世界にあることにきっとなにかのサインがあるんだろうと
思いを巡らす。

昨日出席した「やすらぎの部屋」のクラスでこのことを話しながら
徐々に紐解いて。

私の中に「役わりをこなす」ことに関しての相反する信念と
それにまつわる悲しみがあるんだということに気づく。

「役わりなんだからしっかりやるべき」

「私は役わりをこなすために生きているんじゃない。
 本当に好きなことをしたいんだ」

******

さらにクラスでその話をすすめていくうちに、
「役割」という言葉がさす意味がひとつではないんだと、気が付いた。

普通に日常での「役割」って、割り振られたらやらなきゃいけないことだし、
やらされることだし、ちゃんとやるのがいい子だし、
したいとかしたくないとかそんな感情を持ち出せる隙はない。
と捉えていた。

そして私は中学生のころから反抗期の最中に
よく母に言っていたなあと、思い出す。

「主婦なんだから、ちゃんと役わりこなしてから好きな事すれば」

それを裏返せば、ちゃんと役わりをこなせないなら、好きなことする権利はない。
ということでもある。

なんて残酷な言葉なんだろうと、今更ながら気が付いて、
そういえば、それを今の家族や自分自身にも言っているのだろうかと
見つめてみた。

「・・・・・言ってるわ」

そしてまたもう一方では、大声でそれに対して主張する声があるのも事実。

「役割なんて、なんなんだ〜。そんな枠に私をはめて自由を奪わないで。
 好きな事を好きなだけするんだ〜〜」

***********

「役割」という言葉がでてくる箇所がもう一つ。
奇跡のコースを呼んでいるとたびたび出会うフレーズだ。

「神の子としての役割り」

ここでも役割という言葉になって、なにかが示されている。

そして役わりという言葉から感じる、縛られる感じやちゃんとしなくちゃという感じが
じわっとにじり寄ってきて、無意識に避けようとする反応も起こってしまったり。


************

「役割」をこなすことで認めてもらいたくて自分を押し殺した怒り。

その奥にあるのは、

「役割」をこなせなかった悲しみ。

その根っこにあるのは、
神の子としての「役割」なんて嫌だよって、背を向けて
愛から離れていった自我だからこその葛藤。

人間という存在は、こんなものを持っているのですね。
そしてそれがあるから、また人間らしいともいえる、
不完全さゆえの人間さしさ。

************

瞑想しながら、聞いてみました。

「役割」ってことについて、どんな風にとらえたらいいのかな?

「何もないとろこには、何も生まれない。
 役割とは世界に触れる経路、叡智に触れる窓口となる あなたへの贈り物。
 あなたにいろんな経験やチャンスが届けられる窓口が、役割というもの」

こんなメッセージが伝わってきた。


そうだな。

母になったから経験したいろんなことがあるよな。
仕事してたから、味わった様々があるよな。

そう思って、今浮上している「役割」にまつわる出来事を見直してみれば
なんだかそういえば、嫌なことだらけにみえていたものが
違った風にとらえられて、軽くなっているのだから、不思議。

これを、しなやかさと呼ぶのだろうか。

***********

最近耳にしたフレーズで印象に残っている言葉。

「このことに誇りを持ってやっているんです。
 誇りを持って、努力しているんですよ」

役割に誇りが加わったら。。。

神の叡智に触れる経験がどんどんと流れ込んでくる窓口、
そこをまかされていることの誇らしさ。

それこそが「天職」なんだろうな。

受け取るメッセージはどんどんと変化していて、
私が思っていることをまさに同じタイミングで語る人や、
書き記す人がいるので、本当に世界は面白いと感じています。

今日のメッセージ。


「今この瞬間の自分こそが、
 生きてきた中での最前線にいる 最高に進化した自分。」

 

 今よりも何かをすれば、すばらしい自分になるのではない。

 いろんなことを思い、何かを抱える今の自分こそが、
 今この瞬間にしかない奇跡的な偶然の上に存在する作品であり
 二度と同じ構成要素で存在することはない。

 だから、好きなところも、手放したいと思っているところも
 手放すにはどうしたらいいだろうかと向き合うところも、
 自分なんてダメだなあと感じながら生きているところも、

 すべてひっくるめて、
 二度とない、すばらしく貴重な瞬間であり、

 今到達している自分よりもすごかった自分などいない。

 成長しない魂などない。

 変化は常に起こっていて、
 偶然できたようなその表現は、
 常に最高に成長を遂げている状態なのだ。

 だから、自分もそういう存在であることを、受け入れよう。

 今ここにいる自分が、
 生きている中での最高の自分。

ポストイットに走り書きした数か月前のインスピレーション。
最近開いていなかったノートからひらりと舞い落ちた。
書き留めておく。

******

恐れ、怒りに基づいた自我の声(批判)は、
本人と相手を今ここから引き離す強力な吸引力を持つ。

魂の言葉は今ここでしかきくことはできない。
なぜなら、愛とは今ここが三位一体となったときに通るパイプを通して伝わるものであり、
その状態にない人には、届かないといえる。
受け取る状態にない。

しかしその人がその(三位一体の)状態になったとき、
過去の言葉は愛の表現であったと認知しなおされ
降り注ぐことができる。
そういう意味で、愛は時を超える。

「誤解された」といって悲しむことはない。
「誤解」は時がくれば、
聞き手が愛であると目覚めたとき、
解ける。

言葉は受け手と与え手の両者のギャップによって
伝わる愛の量は変わるが、
そもそもの愛がかわるわけではない。

*****

今を生きる仲間のみなさん、
共にメッセージを受け取ってください。

************

光へと向かう者たちよ。

今ここに光は溢れ、あなたを包み込んでいる。
そのことに気づいたかね?

はい。嬉しいです。

いつもあったのだよ。
あなたの中には、いつも光が溢れている。

自分がどこか違うところで一生懸命やってきたと思っているのかもしれないが、
そうではない。

あなたはいつだって、光の中で過ごしていた。
ただそのことをどうしても認めたくないというのだから、
ムリには押し付けられなかっただけだ。

あなたは、心を開いて、受け入れることにした。

それがどういうことだかわかるかね?

苦しんでいるあなたなど、いないということだ。

そんな自分のイメージはもう消えてなくなった。

あなたは光に包まれて、穏やかに守られている。

その姿を本当に見るとき、
確かにそれはそうなのだ。

楽しいね。
楽しいだろう。

私と一緒に、散歩しようか。
私と一緒に歌を歌おうか、
私と一緒に空を眺め、
子供の眼をみて、やわらかい肌に触れよう。

あなたが純粋にそれを感じて、
感覚としてわたしに伝えてくれるのが私にはこの上なく心地よいのだ。
あなたが触れてくれるから私はそのことを感覚的に知ることができる。

私がやりたかったことは、そうして触れてみることなのだ。
世界に。
愛が形となった世界に。

エネルギーが満ち溢れているリアルな瞬間に。

恐れに囲まれた世界をあなたは知っているのかもしれない。

恐れについて、死について、生き残ることについて、
正しいことについて、勝つことについて
あなたはたくさんのエネルギーを使ってきたかもしれない。

それもいい。

しかしそれは、生きる喜び、命に触れる喜びを味わうという目的のために
それを際立たせるために、あえて用意したものだ。

死や恐怖に支配されるためではない。

生きるということを楽しみつくすためなのだ。

あなたは、命だ。
あなたは命に力を与え、
生きるということに、意識をむけ、
生きているということに、喜び満たされている。

そのことを、共に祝おう。

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