ブログの更新が久しぶりとなりました。

なんだかすごくいろんなことがあった7月後半から今日まで。
私の中で、気がついて寄り添った思いやエネルギーがたくさんありました。

そのプロセスの中でそばにあって助けとなったのが、
香咲弥須子さんの著書
『「奇跡のコース」を生きる実践書
〜奇跡を目撃し合い、喜びを分かち合う生き方〜』
です。

一人でやるのではない。
ホーリースピリットにお願いして、見せていただく。

このことを実際にワークしてみると、
動揺するような現実が、
ただ私に気づかせるためだけのドラマだったのだと
受入れ、許すことができたのではないかと思います。

明日の「ゆたかフェ」ワークショップでは、
それも参加者の方と一緒にやって、
奇跡を目撃しあいたいと思います。

まだお席に若干空きがあります。
参加されたい方は、桶川までぜひいらしてください。

「ゆたかフェ」#2美しい
JR高崎線桶川駅 
10:30〜15:30
※電車でお越しの方は駅から送迎あり

お申込みはこちらから




6月9日の「ゆたカフェ」ワークショップにむけて、
私はその限られた時間に、何を発信することができるだろうか、と
日々、時間のある限り、やっております。

そして、どうしてももう一度目を通しておきたい文書をひっくり返しては
そうだ、そうだ、とやっています。

と。

言葉のさす、そのことが、
頭ではなく経験として理解できる。

そんな部分が増えていることに気が付く・・・。

あんなにわけわからなかった文章が、
なんでわけわからなかったのかが、わからない・・・
当たり前のことが書いてあるに過ぎない。と思える自分がいる。

さて、数年前の、わけわからなかった自分と
今は当たり前で、そのとおり!うまいこという!と感心ばかりの私
この二人の差は、何なのか。

今日、それがなんか感覚としてわかった気がしました。

言葉で書くのは難しいけど、書いてみようと思います。

それは何も、私がえらくなったわけでも、すごくなったわけでもないのです。

ただ、「受け入れた」んだと思うんですね。

抵抗するのをやめた、とでもいいましょうか。
もしくは、頑張ってきた自分に執着するのはやめた。
とでもいいましょうか。

とても生きにくい(と思い込んでいた)幼少期と20代を過ごし、
その中で頑張って、気を張って、自分を犠牲にして(と思っていた)
自分としては、
その自分の頑張りを無駄なことだったなんていわれたくなかった。わけです。

いいたくもなかったわけです。
そんなことしてしまったら、私は何のためにその日々を必死に生きぬいていたのか
わからないから。

だから、大事でした。
頑張った自分の頑張りが。
出来うる限り最大限、自分を譲って、犠牲にして、生きていた。
と思っていました。

そんな自分では、到底受け入れられないわけです。
その本に書いてある、いろいろな叡智は。

だって、この世は夢だというのですから。
そんな世界をみているのは、あなたのエゴがみせているというのですから。

バッキャロー、そうだったというんだから、そうだったんだ。
大変だったんだ。生きるだけで。
そういいたい自分がいました。

そして、その自分がセルフイメージでした。

それを全部手放す。
なんて、できるかい!

*****************

今日は、ひっくり返して読みだした文章の
指示通りに瞑想して、
涙がとまらなかった。
それは、悲しみとか浄化の涙ではなかった。

ただただ、喜びと感謝と慈しみの涙なのでした。

それは、私が何にしがみつこうが、
何に執着しようが、
事実は、、、真実は、いつもかわらずそこにあったということ。

真実とは、
私は宇宙であり、宇宙は私であり、光は私であり、私は光であり、
目に見える分離しているとおもっている人々も、
ただ、大きな意味で、私であったということ。
それは、みな、愛なる波動であったということ。

これを体験して、観じて、
なお、自分は頑張ったんだと世界にわかってもらいたくて抗議しつづける
小さな枠の自分が大切???なんて・・・
なんでそんなにそのことにとらわれていたのだろうかと
わからなくなったのでした。

これが、気づきというものか。

世界はやはり、一息ごとに、変わるのです。
変わることが、自然なことですから。

********

そんなことを思っていたら、降ってきた言葉。

「あなたが経験したこと。頑張ったこと。傷ついたこと。感じたこと。
 おいたち。あなたを作り上げたすべての要素。
 だからこそ、わかることがある!
 生きてくれてありがとう。
 あなたが感じたすべてのことに、ありがとう。
 そして今それを訂正する勇気に、祝福を送ります。
 あなたしかなしとげられない、大いなるチャレンジに」

だって。

大変だった時間、過酷な幼少期、傷ついた心、

すべては、それを光に変容させて、輪が完成するようです。
私だからこその輪が。

それが、オリジナルの軌跡・・・・奇跡。

すごく大きなリフレーミングだ。

二つ前の記事に書いた、無意識的筋肉のこわばり解除。

それを初めてやったあの時、意識してこわばりを解除したら
すぐに勝手に活元運動がでてきた。

活元運動は、身体が本来を取り戻そうと自然に動き出す
その動きにまかせきる自力整体。

本来3つのポーズをやってから、
活元運動がでてくるのをまって、静かに身をまかせていくという感じなんだけど、
しっかり前準備をしても活元運動がなかなかでないときもありました。

それが活元を知ってから初めて、
勝手に体がぐるんぐるん動き出して、「あっ、活元でてきた〜」と
しばらく動くがままにしたのでした。

私の場合はなぜか右半分が動いてた。
手とかぶるんぶるん動いてた。


そして、それ以降、こわばりを意識したら、解除するように心がけてます。
そしておまけのように、よく活元がくっついてきます。

体は動きたがっているようです。

春だしね。

毒だしの季節だもの。

いろいろ整理して、整えて、
春はやっぱり新しいことに向かいたくなるように
できているんだね。


とっても面白いことを友達が教えてくれた。

現在、友人との交換セッションを始めたのだけれど、その1回目で伝授してくれた内容。

「じゃあ、私が正座で座るから、私を思いっきり押さえつけてね。私が立てたら、5万円払うんだよ。そのつもりで思い切り遠慮なく押さえつけてね」


そんなリクエストから始まって、私も???がいっぱいだったのだけれど、
言われた通りにやってみた。

「じゃあ、まず力で対抗して立とうとするね」
と言って、彼女はなんとか立ち上がろうともがく。
私も必死だ。

で、かろうじて抑え込み、なんとか勝った!

「じゃあ、もう一回。今度はもし私が立ったら10万円払ってね。
私はさっきとは違うやり方で立つね」

で、同じことをやってみたら・・・

あれ?なんか途中から力が入らない。あれ、あれ。と思っている間に彼女はすっと何事もないような顔をして立ち上がったんです。

「え~~~!?なんで?」

*********

さて、ここで教えてくれたのは「受容性のワーク」。

よく聞くかもしれないけれど、「ブロック解除」というフレーズ。
思考の中にある思い込みもブロックだし、
受け入れられない存在を批判している心もブロックだし、
過去のトラウマもブロックだ。

そんなブロック(お荷物)を解除(手放)して、すっきり楽に生きたいというのが
みなの願いだと思うのですが、
なかなかそのブロックに自分では気がつけない、気が付いていてもどうやって手放していいのかがわからない。というのが私の経験してきたところです。

そして今回教わったのは、それを手放していく、一つのやり方でした。

心のことも、過去の記憶も、思考のゆがみも、
ブロックは肉体ときっても切り離せない関係という前提です。

整体でもそうですが、本当に肉体は正直で、
それこそ本人は気が付かないままでいることでも、
肉体は全部語ってくれているんですよね。

で、今回はこのブロックを「無意識的筋肉の収縮」と呼び、
それを意識上に挙げていく作業をすることによって、
解除していく方法なんです。

**************

先ほどの押えつける実験では何をしていたかというと、
力に対して、力で対抗すると、強いものが勝つんです。
だけどとてもエネルギーを使いますよね。

ところが、ただ「立つ」という行為に使うのに必要な最少の動き、
「ただ立つ」という動きだけをすれば、相手は力をいれることができなくなって
結果、すっと立ててしまう。(私も交代でやってみたら、本当にそうだった!)

そのほかの無意識的緊張やこわばりや力み=筋肉がオンの状態を感じていき
みつけたらそこに光をあてて「オフ」とゆるめていく。

さあ、そして本当にそのことをすることに必要な筋肉だけをオンにして
あとはオフにできれば、
かなり体が柔軟性をもった状態になり、
また状況もスムーズにす〜っとうまくいくんだそうです。

無意識的に常にオンになってしまっている筋肉、
反応して余計にオンにしている状態、
これを意識して「オフ」にしてみる。

うん、面白い!
上にわかりやすい!

内面で起こっていることが、外の世界にでている。
という宇宙の法則も基本にあって。

**********

彼女が教えてくれたのは「カムイアーツ」という手法の入口なんだそうです。


**********

今の車は15年も頑張ってくれた大好きな車。
だけど、この決算期に買い替えることになりました。

そして、
この方法をひたすら試しながら、昨日人生初の新車を買いました。
営業の人と向かい合いながら、私の身体に起こっているいらない「オン」を
ずっと「オフ」にしつづけて、
ただ座って、話をするということだけを目指しました。

そしたらすごくがんばってくれて、とてもスムーズにいい買い物ができました。

日本の武道にも通じることだろうと思います。
体って奥が深い。

40年以上もこの肉体といっしょにいながら、
まったく使い方を理解していないことに、
驚くしかありません。

もっと深く知っていきたいな。

 2013年もどうぞよろしくおねがいします。


昨年の冬至からとても重要な日々が始まっています。
ハートの願いが現実化されていきます。

とゲリー・ボーネルが話しているのを知って、

私の願いとはなんなのだろうか。。。と
今一度問うてみたりしています。

そしてこのところ、日常の中にある場面場面がいとおしく
とても大切に感じられるように
(やっと)なってきていることに気が付いています。

ずっと抱えていたテーマは「支配とコントロール」でした。

ただ、今日命あるこの時間を、そうあの子供のころのように
嬉しくドキドキ、未知なるものとの出会いの瞬間として
楽しめる自分であることが
どうしてできないのだろうか・・・

と。

そんなことを思う自分は、過去の自分だから
「今」
と切り離す。

「今」は

ただ「今」産まれたばかりなのだから。

「今あること」と「継続の強さ」

この一見相反することが同時に存在できないように思えていたけれど

レーネン博士は「デュアリティの時代」と表現していました。

デュアリティとは一見相反する価値観に思えることが同時に存在することを
許すこと。

男性性と女性性
ワンネスであり個

今あることと継続の力も
水瓶座の時代の特徴であるデュアリティなのかな

年末に大掃除をして、ブックオフに売ろうかなと思ったけど
結局読み返し始めて、やっぱりとても気づきをもらえたレーネン博士の本
「超スピリチュアル次元 ドリームタイムからのさとし」

超スピリチュアル次元 ドリームタイムからのさとし

ありがとう。

「被害者意識と自己犠牲のふり幅は同じだけ振れる。」

私は被害者だと発言する人は、
自分が被害者になりたがっていることを知らない。

本音を我慢して
嫌だけれどもそれに耐えているのは、
頑張っていることとは違う。そう、努力ではない。

それは、自己犠牲を正当化しているだけのこと。

自分を犠牲にできるのがいい人だと定義しているのであれば、
それは今一度検討してみる余地がある。

「自己犠牲」と「他者のために尽くす」ということは全く違うこと。

自分が犠牲になることを許し、自分を犠牲者にしているのは、
自分を被害者にしたい加減と同じだ。

ということは、
自分に好きなことをさせず、嫌なことを我慢して頑張っているならば、
それは自分を世界の犠牲者だとしている行為と同じ。

なんのために?

そこに存在意義を見出しているから。

そうすることで、自分を他者とは違う特別な位置に置こうとする
主張として。

私はこんなにも我慢していて、
こんなにも、つらいんです。

そういう世界を自分に与えているのは
外側の環境ではなく、
自分自身なんだということが

この3週間の体験で、腑に落ちた。


自分が自分と戦っているということを
見抜けたならば、
そこを手放せる日も夢ではないのかな。

*********

私がバイトをしはじめたこの日々の
本当の意味はなんですか?

刺激が加わることで、
あなたの中にある価値観や持っているフィルターがあらわになっただろう。

道はあなたが思い描くような直線ではなない。

想いもよらない道をたどる。

自分が一体何の声を聴いて進んだのか。
そして今何の声に耳を傾けているのか。

あなたは実践でそれに気づくことができる。

そしてまた自分を犠牲にしないでもいいんだということを
本当に自分に許す練習と
それを声に出して、実行し、
自分が進む道を選ぶことができると、
実践すること。

あなたにとって、
この経験が、無駄である
とは考えないことだ。

そのような自我が導き出す安易な結論を信じ込まないこと、

無駄ではないし、今はこの道を行っているのだから、
その前提を疑ってかかったり理由を求めたりしないことだ。


動いてみたことはいいことだ。
行動をしてみてはじめてわかることがある。
あなたにはできるということがわかる。
自分は動けるということが分かった。
ではどう動くのか。
今度はそこに自分なりに工夫をして、たのしいことをしてみればいい。


同じ行動が
やらされていることなのか、
やっていることなのか。

それはあなた自身が自分を犠牲にし、被害者にしているか、
それとも自分を創造者としているかによって
まったく違ったものとなる。

あなたは、今まで自分を犠牲者にして
自己犠牲の箱にはいって、
自由を探し続けるというスタイルと

お金をかせぐという行為を
くっつけてきた。

それをやめることができる。

今ならあなたにはわかるはずだ。

自分がこれまでとってきた戦略が
楽しくないしんどいものであったということが。

それによって一体だれが幸せになっただろうか。

自分が幸せだと感じていない行為によって、誰かに幸せが伝わると思うかね?

いいや、

あなたは大いなる気づきにいたろうとしている。

神というエネルギーの前に降伏すること、
自我の小さな策略をすべて手放してしまうことと

神という力の前に犠牲者となりなげくことの

まるで違うことを。

さあ、それではあなたに問う。

あなたは誰なのか。

外にでて走り回りたい。
走り回って笑いたい。

それは今いる場所ではできないのですか?

あなたが気が付いていないだけだということがわかりますか?

今いる場所で走り回って笑って下さい。
誰もとめていませんよ。

どこかに行けばそれができるという幻想を捨てることです。

どこかに救いが落ちているのではないのです。

あなたの心の中に映し出された世界という幻想が
あなたを地獄にも天国にも運んでいきます。

さあ、社会にでて外側に何が見えましたか?

あなたがそこにみた景色が、
あなたの心のスクリーンに映っている景色と同じ波動域であるということを
もう知っているのですから、

それに対して批判をするのではなくて。

何をするのでしたか?

なっていたい姿、世界を思い浮かべ、そうであるようにふるまう。

そうです!そうです!

今いる世界が、すばらしく充実していて、愛に溢れ、あなたが光を放射していて
人々の笑顔がたくさんあり、自分は自由と満足感を感じていると

今からその世界を生きるのです。

どこにいても被害者意識の強い人は被害者になりたがり、
そういう現実を引き寄せています。

ということは、逆もしかりですよ。

どこにいても、
笑顔で充実して満足して自分のことが大好きで、
幸せである人は、

環境が状況がどうであっても、

幸せなのです。


あなたの中にある、被害者意識=自己犠牲を受け入れる自分
この部分を溶かしていく作業をしてみましょう。

 今日のラジオで
精神科医の先生が

「こだわりが強い人は寂しさを抱えている人が多い」

という発言をしていた。

例えば、大好きだったペットをなくしたとき、悲しいといいきれず、
大丈夫これくらい大丈夫とがんばっだ人。

大丈夫、私は大丈夫

と頑張った結果、さらにさらにこだわって、
こだわりの強い人間になる。

そんなような話だったと。

さて、

この話は本当にその通りではないだろうかと
思い当たった。

自分のこととして、だ。

『こだわる』ことで個性的な中でも個性的になろうとした
「すぐれた個」であろうとする欲求は
自我がなせる業だということを知ったならば、

一体こだわわることに何の意味があるのだろうと
考慮しはじめる。

「こだわる」と言えば聞こえはいいが、
「執着」と呼べば一気にいらないものという気がしてくる。

好きならば、こだわりたくもなる。
好きだからこだわりたくもなることと、
その世界で一番いいものを追い求めてこだわることでは

やはりまったく違うことなのだろうか。


いろんなところでこだわってしまう傾向にある私としては
このキーワードは今後も大切にみつめていきたいところだ。

といって、すでに答えは内奥にてでているのだけれど。

「ほとんどのこだりはどっちでもいいこと。」

どっちでもいいと知って、あえて好きな方を選ぶ。
ならば、違う方を選んだ人を攻撃しないで済むのです。


「生きている、その間にあなたがこだわる箇所を見抜け。
それがあなたの生きざまで、他の人は、己の人生を好きなように生きている。
それは評価するためにあるのではない。
ジャッジしている自分がいるのなら、あなたはまだ真実に気がついてはいない。
ジャッジしている自分と向き合うことだ。」

だそうです。

「こだわって見つけたものでなければ安全ではない。安心して生きていけない」
というのは、
もう手放してもいい概念ではないだろうか・・・と。

そして手放せる気がするな〜と
なんとなく今日思った。

この世の中は夢だ。
というのは、精神世界の話がすきな人には耳になじみのある言葉だろう。

そしてもう一つ、あなたは光である。というのもしかり。


さて、ここのところあまりブログを更新できていない理由が実はありました。
それは、私が作品を書こうとしているからで、
半自動書記で感じたことをそのままタイプしていく時間を
生活の中で確保していたということがあります。

私は、確か小学校の2年生の時に
「自分は作家になる」と思ったのを覚えていて

さらに15歳の時に脚本を書こうと。

その後、いろいろあって、結局オリジナルの作品というのは
数えるしか書いたことがなく(もちろん個人的に)

小説という形態のものは未だにかいたことがありません。

だけど、今ならなんだかかけそうだなという気がして、
それでせっかく生まれてきて生きているんだから
やりたいとおもっていることをやってみよう!と思い立ったのが、昨年の秋。

その後、ブログでこのことを書くのを意図的にやめておいたのは
書けないかもしれないから、という逃げの一手でした。

そして。

今、まだかけていません。

ただ、結構、自動書記による材料は集まってきた状態で、
なんだかすごく面白いストーリーがすでに手中にあります。

ああ、だけどこれを形にする技術がない。

まったく、一体これまで何して生きていたんだろうと思うくらい
せっかく手にした材料を
うまく調理することができないでいます。

でもやってみようとしています。

どうぞ、期待しないで応援してください。
(うわ〜、わがままなお願いだね)

あ〜、書いている内に
最初に書こうと思っていたことと全然違うことを書いてしまった。
言わないつもりが書いてしまった。

*******


そうそう、このところ、なんだかすごくストンと冒頭の2つのことが受け入れられて

「そうだ、そうでしかないんだな」と

なんか感覚でわかったという感じです。

自分は光を追い求め、光になろうとし、
そして葛藤を手放そうとし、
この世の夢から目覚めようとしていました。

そうしていること自体が、
迷路に迷い込んでいるんだな〜ってことに気づいたのは、
つい先日改めて

「私が光そのものだ」
という言葉にふれたときでした。

「見たい夢を見ているだけなのだ」ということが
本当にシンプルに説明している言い方なんだなと
とらえられた瞬間でした。

これは、
言葉でいま書くとすれば、

「そうなのだから、そうなのだ」

というだけのことでした。

なんて書きながら。

スポーンと解脱とか、悟りとか、ってところには
なかなか到達しないわけなんですけど。

ああこんなにも矛盾だらけの自分を

120%面白がって、

寄り道も楽しんでね。
春だから。

たくさん、寄り道しています。

はっとして涙した言葉が満載↓
四つの約束

抜粋
「死は私たちの恐怖の中で最大のものではない。
一番の恐怖は、生きる為に危険をおかし、本当の自分を表現することなのである。
ただの自分でいることが、人間の恐怖の最大のものである」


********

人間がゼロ地点に戻るためにすることは

「人生の前半で自分が自分にしかけたトラップを解除すること」

トラップとは、合意して自分のものとして取り込んだ信念。
分離の夢を見るための、合意。

そして生きているということを本当の自分で創造していく過程は
「光(愛ともいう)として表現していくこと」

そして現時点での私の意見は、

二つの作業は、同時進行だ。
ということです。


すべてのトラップを解除したら光になれて、光としての表現が可能になる

のではなくて、

トラップは解除しながらも
今すでに光であるという事実を知って、
もう表現は始めていく


んだな。


昔、文章を書くという仕事をしていたこともあって、
パソコンは、ブラインドタッチだ。

それは、ピアニストがピアノをチャリラリラ〜ンと何気なくはじくように、
画家がさらさらっとデッサンするように、
または、マラソン選手が朝飯前に5キロ軽く流すように

私にとってはどうってことない動きだ。

だから、思考を介さない無意識的な状態を作りやすいのだろうと
予想している。

私のチャネリングというのだろうか、
ある存在との対話というのだろうか、

自分が考えるにしてはあまりのスピードでやってくる
その言葉を
書き留めるだけ書き留めて、
できた文章というのは、
後で読み返すと、
本当に自分が書いたんだろうか?
と思う、表現や発見があったりする。

「自動書記」

という言葉があるが、これがそれだろうか。。。

そんな風に思う対話らしき対話が7月ごろ一度あって、
それっきり、意図的にその状態を作り出そうとは思っていなかった。

先日、あるライターさんとお話していたら
彼がこういった。

「自分の理想は、自動書記でライティングができることなんです」

そうなんだ。

その言葉をきいて、自分の中で起こっていることは
なんか「自動書記もどき」の偶然おこった「気のせい」
として終わらせようとしていたけれど、

もしかしてもしかすると、結構貴重なこと!?

気のせいにしてスルーするのは・・・

どうしたものか。
と思った。

さらに、エンジェルメッセージをチャネリングにて伝えてくれる
友人のモニターセッションを7月にうけた。

その際にも
「あなたのところに来ているメッセージは
あなたのところで留めないで、伝えてください」

という言葉をいただいた。

セッションでは、受け取ったメッセージは
伝える場面では伝えてきたが、

もしかしてこの自動書記もそれか?
と思い、

4日前から、今度はその状態をやってみようと思って
時間をとって
パソコンに向かってみた。

そしたら、スタートして4時間で(字数計算で)原稿用紙22枚分の対話になった。

頭使わないで、書記よろしく指を動かすだけだから、すごく楽〜〜。

といわけで、以来、時間をみつけてやってみている。

その中でたくさんの気づきを得た。
立派なセッションだな〜と思う、解放や見方の転換もあった。

誰かのためにというのではない。
ただ、自分の中だけのこと。

だけれど、すごく大きな変化が今、私の中に起こっています。

このところブログの更新をしていなかったのは、
そちらをやっていたからです。

もう少しやっていこうと思っています。

さっき、起きる直前、す〜っとあることに気づいた。

「捉え方が、エゴのサバイバルな理由づけからなら、
 それは緊張をともない、喜びはない。
 根底がソウルの視点からの理由づけなら、
 それは生きがいとなり、楽しい」

物事には、2つの切り取り方があり、
自我的サバイバルな目線と
ソウルからのミッションとしての目線だ。

その意味が、浅い眠りの中にいたさっき、
すーっと、理解できた。

「そりゃそうだ。まったくだ。こんな明白なことはない」と
ものすごく 腑に落ちて いた。
なんか、全部ストーンとわかったぞ。
(と、夢の中の私)

こりゃ、忘れないうちに
書き記しておこうと
ブログをかきはじめたわけだけど、

なんか、書いていると、もどかしい。
立体を平面にしているようで。

そしてちょっとづつあの夢での理解からずれていくようで。

もう起きて思考が働き始めてしまったから
ずれてしまっても仕方がない・・・としても、
やっぱり記しておこう。

以下、後付けで思い出したことなど、メモ。

*パートはサバイバルを第一に優先するものたちと
 ソウルを第一に優先する者たちがいる。

*一度できたパートは大切な自分のリソース(資源)。
 消し去ろう、抹殺しようなどと考えないことだ。
 そうすればするほど、消えたくないと主張し始める
 (特にサバイバル優先のパートたちは)

   →サバイバル優先なパートたちを
    ソウルな見方優先へと導き変容させるスキルが
    コア・トランスフォーメーション。

*サバイバル優先のパートたちにロックオンされてしまい
 そことつないだ手を放したいのに離せなくなってしまった状態に
 おちいりがちな傾向がある。(←私には)(←バランスの片寄)

*そのことに気が付ければ、手を放すことができる。

*そしてニュートラルポジション、
 つまり、誰でもない私・・・ただあるというその状態
 これこそ、自分をコントロールするマスターであるが
 そのポジションに戻ることが可能となる

*パートの中には、ソウルを優先する見方が得意なものたちもいる。
 そっちのパートたちに切り替わればワクワク、喜びの感覚がやってくる。
 そこと手を組むことをスムーズに、得意(慣れた)な状態を作れれば
 いつでもそこと手を組める。

*ニュートラルポジションの自分を知ること。
 どこのパートとも手をつないでいない状態。

*自己認識として、自分はどこと手を結ぼうか。
 
*意図とは違うサバイバルなパートに
 すり替わってしまう瞬間。(←肉体ベース、ここに恐れが発生している)

・・・・・・・・・・・・

注)時と場合により、サバイバルモードはとても大切だ。
  エゴ、サバイバルモードも、生きていく上で重要な要素。
  
  『バランス』


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