ここのところ、ご相談にのることが多いテーマで
私にも共通するものって、なんだろう。

そう思いをめぐらせていたら
ある一つのテーマが浮かびました。

「正しいことを選択しようとする無意識の衝動」

正しいことをしたら

怒られない(誰に?)
受け入れてもらえる(誰に?)
許してもらえる(誰に?)
認めてもらえる(誰に?)
愛してもらえるかも(誰に?)
存在してもいいとOKがでる(誰から?)

間違ったことをしちゃったら

怒られる(誰から?)
嫌われる(誰から?)
拒否される(誰から?)
罰を受ける(誰から?)
地獄に落とされる(誰から?)
愛される資格がない(と誰がいう?)
存在する価値がない(と誰が決める?)


親か、世間か、社会か、自分自身か。

最近、「神との対話」3部作の後にでた 
「神との友情(上下)」を読んでいて。    神との友情

神。

どんな神がいるのかな。

神の意向に沿うことをする正しい子が愛されて
神を怒らせると、罰せられる。

そういうイメージが根底に叩き込まれている。
宗教とは無縁の私にも。
集合意識にも。

「罰する神」

そう、奇跡のコースが訂正しようとする「フィルター」だ。

「神はいかなることも罰したりしない。
 神はすべてであり、無条件の愛であり、あなたが愛であることは保障されている」

頭ではもうすっかり理解しているつもりなのだけど、
それでもまだまだ完全に訂正しきれていないのがわかる。

だって、つい子供に正しさを求め、
生きる命の表現より、正しさを優先するよう、さとしているときがある。

例えばよく言ってるな〜って思うのが

 岾擇靴い里呂錣るけど、まずは片づけて」
◆嵬斉また起きられないから、もう寝なさい」
「なんでケンカばっかりするんだよ。ちょっとはケンカしない方法考えて」

どれも正当な親のセリフだ。
だけどね。
私、言いたいんだろうか。
こういうセリフを言うたびに、なんか違和感が体を駆け巡る。
いいたいのか。言わされているのか、言わずにはいられないのか。

なぜ。

ヽ擇靴い蛤を喜んでいるとき、
一瞬を惜しんで没頭しているとき、
5せちを素直に出してぶつかり合っているとき、

それを「正しさ」の方を上にして、抑え込もうとするんだろう。

「正しさ」という物差しで
喜びを抑え込んだり、あきらめたり、表現することをやめたり
自分に喜びを与えなかったり、人から奪ったり・・・

それは本当に望む自分の姿ではない!

**********

神の五つの姿勢についてしりたいのだね? 第一の姿勢からいこうか。
『全面的な喜びにひたされていること』
それが第一の姿勢だ。私は喜びを第一に挙げたのだよ。

喜びがすべてに先立つということだ。
喜びがすべてを可能にする。
喜びがなければ何もありえない。

喜びは魂によい。
それだけではない。喜びは魂だ。
魂は、あなたがたが喜びと呼ぶものだ。
純粋な喜び。限りない喜び。濁りのない、限度も制限もない喜びーそれが魂だ。

心に喜びを抱いていれば、いつでも癒されるのだよ。

でもどうすれば喜びをいだいていられますか?
喜びを経験していない人もいます。

そういう人は喜びの秘密をしらないのだ。

秘密といいますと?

喜びは外にださなければ感じられないということだ。

他の人が喜びを感じるのを、助けてやればいい。
他者のなかにある喜びを引き出せば、自分の中にある喜びを外に出すことができる。

(神との友情、下 P42〜一部抜粋)

**************

私は、喜びを感じ、表現するものです。
正しさを選ぼうとしていた私は、過去の私です。
今は、喜びにひたされているものです。

**************
(宣言してみた(^○^))



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