救いを求める自分に救いを差し伸べることができるのは、本質的には自分しかいない。

命を輝かせて満開の花を開花させることができるのは、
そう、やはりあなただけなのだ。

あなたがやらないで、一体だれが代わりにやってくれるというのだろう?

魔法使いや白馬の王子様がやってきて、
一晩で世界を変えてくれると、本気で信じているのかね?

あなたが、命をもってこの地上に今存在しているということ。
このことを奇跡と呼ぶ。

自分を生の喜びで満たすことに同意するのです。
自分が喜びに満たされて生きているということを許すのです。

そして、それを受け入れたとき、あなたの新しい道が動き始める。

しかしそこまででは創造ではない。

うけいれたなら、今度はそうであるものとして今から瞬間瞬間に存在するのです。
そうであるものとして、生きる。
それを実行することによって、あなたはこの救いの輪を完成させることができます。

救いの輪・・・
あなたが自らの光を分かち合うことの行動を起し、
結果になんらかの期待をしないこと。

他者に見えるもうひとりの自分と愛を分かち合ってみて
その体験を感じてみるとき、
あなたの心はすばらしき宝を手に入れる。

これはやらなければならないことではない。
押し付けているのではない。

いつでもやりたくなった時に、やればいい。

いつやるかはあなたの自由。
しかし、必ず、その時はくる。



昼間は社会にでて働き、
一人の時間が確保できた時は、
創作に専念しようかと。

こちらのブログの更新がとぎれとぎれになるかもしれませんが
生きておりますので。。。。

目下、今月末の締切にむけて
創作中です。

締切といっても、
私がずるずると逃げないために
見届け人に設定してもらった「期限」なんだけどね。

バイトも創作も
なんだかちょっと楽しくなってきた今日この頃。

えいやっと、勢いでやり始めてみると、
気分は後からついてくるんだね。

5月の伸び行く緑のように、
私も動いております。


「被害者意識と自己犠牲のふり幅は同じだけ振れる。」

私は被害者だと発言する人は、
自分が被害者になりたがっていることを知らない。

本音を我慢して
嫌だけれどもそれに耐えているのは、
頑張っていることとは違う。そう、努力ではない。

それは、自己犠牲を正当化しているだけのこと。

自分を犠牲にできるのがいい人だと定義しているのであれば、
それは今一度検討してみる余地がある。

「自己犠牲」と「他者のために尽くす」ということは全く違うこと。

自分が犠牲になることを許し、自分を犠牲者にしているのは、
自分を被害者にしたい加減と同じだ。

ということは、
自分に好きなことをさせず、嫌なことを我慢して頑張っているならば、
それは自分を世界の犠牲者だとしている行為と同じ。

なんのために?

そこに存在意義を見出しているから。

そうすることで、自分を他者とは違う特別な位置に置こうとする
主張として。

私はこんなにも我慢していて、
こんなにも、つらいんです。

そういう世界を自分に与えているのは
外側の環境ではなく、
自分自身なんだということが

この3週間の体験で、腑に落ちた。


自分が自分と戦っているということを
見抜けたならば、
そこを手放せる日も夢ではないのかな。

*********

私がバイトをしはじめたこの日々の
本当の意味はなんですか?

刺激が加わることで、
あなたの中にある価値観や持っているフィルターがあらわになっただろう。

道はあなたが思い描くような直線ではなない。

想いもよらない道をたどる。

自分が一体何の声を聴いて進んだのか。
そして今何の声に耳を傾けているのか。

あなたは実践でそれに気づくことができる。

そしてまた自分を犠牲にしないでもいいんだということを
本当に自分に許す練習と
それを声に出して、実行し、
自分が進む道を選ぶことができると、
実践すること。

あなたにとって、
この経験が、無駄である
とは考えないことだ。

そのような自我が導き出す安易な結論を信じ込まないこと、

無駄ではないし、今はこの道を行っているのだから、
その前提を疑ってかかったり理由を求めたりしないことだ。


動いてみたことはいいことだ。
行動をしてみてはじめてわかることがある。
あなたにはできるということがわかる。
自分は動けるということが分かった。
ではどう動くのか。
今度はそこに自分なりに工夫をして、たのしいことをしてみればいい。


同じ行動が
やらされていることなのか、
やっていることなのか。

それはあなた自身が自分を犠牲にし、被害者にしているか、
それとも自分を創造者としているかによって
まったく違ったものとなる。

あなたは、今まで自分を犠牲者にして
自己犠牲の箱にはいって、
自由を探し続けるというスタイルと

お金をかせぐという行為を
くっつけてきた。

それをやめることができる。

今ならあなたにはわかるはずだ。

自分がこれまでとってきた戦略が
楽しくないしんどいものであったということが。

それによって一体だれが幸せになっただろうか。

自分が幸せだと感じていない行為によって、誰かに幸せが伝わると思うかね?

いいや、

あなたは大いなる気づきにいたろうとしている。

神というエネルギーの前に降伏すること、
自我の小さな策略をすべて手放してしまうことと

神という力の前に犠牲者となりなげくことの

まるで違うことを。

さあ、それではあなたに問う。

あなたは誰なのか。

外にでて走り回りたい。
走り回って笑いたい。

それは今いる場所ではできないのですか?

あなたが気が付いていないだけだということがわかりますか?

今いる場所で走り回って笑って下さい。
誰もとめていませんよ。

どこかに行けばそれができるという幻想を捨てることです。

どこかに救いが落ちているのではないのです。

あなたの心の中に映し出された世界という幻想が
あなたを地獄にも天国にも運んでいきます。

さあ、社会にでて外側に何が見えましたか?

あなたがそこにみた景色が、
あなたの心のスクリーンに映っている景色と同じ波動域であるということを
もう知っているのですから、

それに対して批判をするのではなくて。

何をするのでしたか?

なっていたい姿、世界を思い浮かべ、そうであるようにふるまう。

そうです!そうです!

今いる世界が、すばらしく充実していて、愛に溢れ、あなたが光を放射していて
人々の笑顔がたくさんあり、自分は自由と満足感を感じていると

今からその世界を生きるのです。

どこにいても被害者意識の強い人は被害者になりたがり、
そういう現実を引き寄せています。

ということは、逆もしかりですよ。

どこにいても、
笑顔で充実して満足して自分のことが大好きで、
幸せである人は、

環境が状況がどうであっても、

幸せなのです。


あなたの中にある、被害者意識=自己犠牲を受け入れる自分
この部分を溶かしていく作業をしてみましょう。

生活に新しいことを取り入れまして、
久々に人の多い職場に通い始めた。

あ〜。

満員電車、乗るのはたった15分だけど、
いや〜。大変だ。

毎日長時間乗っている人、御苦労さまです。

ふ〜。

いろんな人がいる。。。

ここんところかなり同じ世界観の人たちとばかり話をして
安心していたので、

ひさびさに

というか、実践で
試されてます。

心の平和を保つかどうかは、外側に原因があるのではない。

すべては内なること。

ある物事、ある人のある行動、
あるセリフ、

それをどう受け取り、どんな感情を巻き起こすかは、
己の心というやつの仕業。

心の動きに翻弄されず、
心を超えた向こう側にある
真の平和を感じ続ける・・・・

できるかな〜。

どえらい実習じゃ〜〜。


雨にも負けず

を娘と一緒に読んだ。

久々にじっくりと向き合ったら、
なんか涙がでそうだ。

すごい。

そしてあれだけの作品を世にうみ出した賢治が
生涯で受け取った原稿料は
同人誌に載せた一編の小説に対する5円のみだった
ということを初めて知って、愕然とした。

それから亡くなったのが37歳としってまた
愕然とした。

どんな時代でも
どんな環境でも

書きたい人は書くんだな。

*******

4月に入って、新しい生活が始まった。
修行僧のようなひきこもり生活も、ついに終わるようだ。

しばし社会にでて、世の中観察してきます。

*******

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

倉敷からこどものいとこたちが遊びにやってきた。

今日は一日のんびりと畑をしたり、火をおこしたり。
そしてBBQをして遊んだ。

BBQ.

そう、肉の登場だ。

ハムやベーコンは食べれたものの
肉となると食べる気がしなかったこの頃。

でも今日は、じっくり焼いた手羽をパクリ。
う〜ん、おいしい〜〜〜。

というわけで、肉、食べました〜。

報告、終わり!

PS。明日は上野公園でパンダ見物。

 今日のラジオで
精神科医の先生が

「こだわりが強い人は寂しさを抱えている人が多い」

という発言をしていた。

例えば、大好きだったペットをなくしたとき、悲しいといいきれず、
大丈夫これくらい大丈夫とがんばっだ人。

大丈夫、私は大丈夫

と頑張った結果、さらにさらにこだわって、
こだわりの強い人間になる。

そんなような話だったと。

さて、

この話は本当にその通りではないだろうかと
思い当たった。

自分のこととして、だ。

『こだわる』ことで個性的な中でも個性的になろうとした
「すぐれた個」であろうとする欲求は
自我がなせる業だということを知ったならば、

一体こだわわることに何の意味があるのだろうと
考慮しはじめる。

「こだわる」と言えば聞こえはいいが、
「執着」と呼べば一気にいらないものという気がしてくる。

好きならば、こだわりたくもなる。
好きだからこだわりたくもなることと、
その世界で一番いいものを追い求めてこだわることでは

やはりまったく違うことなのだろうか。


いろんなところでこだわってしまう傾向にある私としては
このキーワードは今後も大切にみつめていきたいところだ。

といって、すでに答えは内奥にてでているのだけれど。

「ほとんどのこだりはどっちでもいいこと。」

どっちでもいいと知って、あえて好きな方を選ぶ。
ならば、違う方を選んだ人を攻撃しないで済むのです。


「生きている、その間にあなたがこだわる箇所を見抜け。
それがあなたの生きざまで、他の人は、己の人生を好きなように生きている。
それは評価するためにあるのではない。
ジャッジしている自分がいるのなら、あなたはまだ真実に気がついてはいない。
ジャッジしている自分と向き合うことだ。」

だそうです。

「こだわって見つけたものでなければ安全ではない。安心して生きていけない」
というのは、
もう手放してもいい概念ではないだろうか・・・と。

そして手放せる気がするな〜と
なんとなく今日思った。

ゴマを常食しているという話は
以前このブログでカミングアウトさせてもらった。

パラパラっとふりかける、とか
ゴマ和えにする、とか

そんなかわいらしいものではなく。

ざざざざっと、小鉢に盛って、しょうゆをぽたぽたっとたらし
あとはスプーンでバクバク食べる。

だいたい2〜3週間で1キロのゴマを食べるペースだ。

きっと中毒なのだろう。
ゴマ中はゴマ中なりに工夫をしてきていて、
最初は黒ゴマだったものが
「皮むきいりごま」というすばらしくおいしいゴマにいきつき、

そしてつい先日、
とんでもないミスがきっかけとなり、
すばらしい発展を遂げた。

きっとみなさんはゴマの話なんぞあまり興味がないかもだけど、
わたしゃ書くよ。

先日、いつもお世話になっているネットショップで
ご愛食の「皮むきいりごま1キロ」袋を5袋、
計5キロ注文した。

段ボールで届いた日、わ〜いと喜んで箱を開けると、
「・・・・・・・、も、もしや、え〜〜〜〜!?」

中には、「皮むき洗いごま1キロ」が5袋。。。。

「ま、まちがえた〜〜〜〜〜」

スーパーで売っている小分けされた袋で間違えたならまだしも、
5キロも間違えて買ってしまったのだから、被害も半端ない。

まあ、自分で炒ればいいのだけれど。
いちいち炒ってから食べるのか。。。。としばし途方にくれるも

まあ、やってみるか、と
人生初、洗いごまを炒ってみた。

ゴマを炒るのって、意外とすぐにできるんだね。
かなりじっくりやるのかと思っていたら、
一回目はやりすぎて、あれよあれよという間にきつね色になり
香ばしすぎるぐらいの出来上がりとなった。

それでもゴマ油がじわっとにじみでて、
そこに醤油をたらすと、
ジュ〜〜〜〜!
って、すごくいい音と香り。

んでもって、うまい!!
炒りたてはすごくうまい!!!

二回目以降は、炒り加減も絶妙になってきて、
私好みの味にできるようになったよ。

すごいおいしいよ!

そういって、感動しながら食べていたら
いつもはノーリアクションの旦那も一口たべてみて、
続けて一皿ゴマ盛りおかわりしてた。
娘二人もうまいうまいと食べて、
今や立派なゴマ家族。

「皮むき洗いごま」の炒りたて、これ最高!

ゴマ中の、平和な日常の大きな発見でした。

興味と勇気のある方は、ぜひキロ買いを↓(かなり割安だよ)


真誠 皮むき洗いごま 1kg

この世の中は夢だ。
というのは、精神世界の話がすきな人には耳になじみのある言葉だろう。

そしてもう一つ、あなたは光である。というのもしかり。


さて、ここのところあまりブログを更新できていない理由が実はありました。
それは、私が作品を書こうとしているからで、
半自動書記で感じたことをそのままタイプしていく時間を
生活の中で確保していたということがあります。

私は、確か小学校の2年生の時に
「自分は作家になる」と思ったのを覚えていて

さらに15歳の時に脚本を書こうと。

その後、いろいろあって、結局オリジナルの作品というのは
数えるしか書いたことがなく(もちろん個人的に)

小説という形態のものは未だにかいたことがありません。

だけど、今ならなんだかかけそうだなという気がして、
それでせっかく生まれてきて生きているんだから
やりたいとおもっていることをやってみよう!と思い立ったのが、昨年の秋。

その後、ブログでこのことを書くのを意図的にやめておいたのは
書けないかもしれないから、という逃げの一手でした。

そして。

今、まだかけていません。

ただ、結構、自動書記による材料は集まってきた状態で、
なんだかすごく面白いストーリーがすでに手中にあります。

ああ、だけどこれを形にする技術がない。

まったく、一体これまで何して生きていたんだろうと思うくらい
せっかく手にした材料を
うまく調理することができないでいます。

でもやってみようとしています。

どうぞ、期待しないで応援してください。
(うわ〜、わがままなお願いだね)

あ〜、書いている内に
最初に書こうと思っていたことと全然違うことを書いてしまった。
言わないつもりが書いてしまった。

*******


そうそう、このところ、なんだかすごくストンと冒頭の2つのことが受け入れられて

「そうだ、そうでしかないんだな」と

なんか感覚でわかったという感じです。

自分は光を追い求め、光になろうとし、
そして葛藤を手放そうとし、
この世の夢から目覚めようとしていました。

そうしていること自体が、
迷路に迷い込んでいるんだな〜ってことに気づいたのは、
つい先日改めて

「私が光そのものだ」
という言葉にふれたときでした。

「見たい夢を見ているだけなのだ」ということが
本当にシンプルに説明している言い方なんだなと
とらえられた瞬間でした。

これは、
言葉でいま書くとすれば、

「そうなのだから、そうなのだ」

というだけのことでした。

なんて書きながら。

スポーンと解脱とか、悟りとか、ってところには
なかなか到達しないわけなんですけど。

ああこんなにも矛盾だらけの自分を

120%面白がって、

寄り道も楽しんでね。
春だから。

たくさん、寄り道しています。

はっとして涙した言葉が満載↓
四つの約束

抜粋
「死は私たちの恐怖の中で最大のものではない。
一番の恐怖は、生きる為に危険をおかし、本当の自分を表現することなのである。
ただの自分でいることが、人間の恐怖の最大のものである」


********

人間がゼロ地点に戻るためにすることは

「人生の前半で自分が自分にしかけたトラップを解除すること」

トラップとは、合意して自分のものとして取り込んだ信念。
分離の夢を見るための、合意。

そして生きているということを本当の自分で創造していく過程は
「光(愛ともいう)として表現していくこと」

そして現時点での私の意見は、

二つの作業は、同時進行だ。
ということです。


すべてのトラップを解除したら光になれて、光としての表現が可能になる

のではなくて、

トラップは解除しながらも
今すでに光であるという事実を知って、
もう表現は始めていく


んだな。


  • 2012.03.18 Sunday
地球と遊ぶことにして。

春なので、土に種でも植えてみようかと
畑をはじめてみることにした。

今日は開墾。
1時間ほど体を動かしたら、なんだかとても気持ちがいい。

帰りにむしったその辺りに生えていた自然の菜の花で
パスタをつくって、
今日は春を味わいました。

草むらが、畑になる日はいつのことか。

種を植えれば、雨がふって、太陽がでて、食べ物ができる。
当たり前のことかもしれないが、
やっぱりすごいことだよな〜と思う。


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